「志賀直哉と加納鉄哉周辺」藤井安剛/作家便り7月絵画や彫刻、古美術研究と調査・・・等、博学多才で知られる加納鉄哉(てっさい)は、東京美術学校の教論職を2ヶ月で退き、その頃より「唯我独尊庵主」を名乗っている。
煙管筒や根付、仙媒等もつくり、晩年は奈良を活動の拠点とした。
作家の志賀直哉は、大正14年、京都から奈良へ居を移している。
この年、鉄哉は亡くなっているのだが、志賀は生前の鉄哉の工房を訪ねているようだ。
2年後、鉄哉をモデルにした短編小説「蘭齋没後」を発表しているが、鉄哉よりむしろ、息子の加納和弘や弟子の渡辺脱哉(だっさい)らと親交があったようだ。
脱哉とは「人間がぬけているから」という理由で、師匠の加納鉄哉によって付けられた号である。
彼のキャラクターと数々のエピソードは、志賀の短篇「奇人脱哉」に見る事ができる。
牙彫出身の脱哉は、水牛角の干鮭の差根付を唯一の得意とし、銘は鉄哉が入れていた、とか、それは30円で毎月一つつくれば生活が出来たーーとか、又、作品の箱書きは、息子程の年の差の若き後継者、市川鉄琅に代筆で書いて貰っていたーー等、興味深い話ばかりだ。
そこには一貫して、志賀の、脱哉へ向けたあたたかな眼差しが感じられる。

「独尊庵主鉄哉造」銘 煙管筒
- 2009/07/18(土) 21:14:21|
- 藤井安剛(東京/東村山)
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