齋藤美洲さんに久しぶりにブログに記事を連載して頂くことになりました。
まずは六月末にいただいた原稿から始めます。宜しくお願い申し上げます。
梅雨・・・・・ しとどに濡れる紫陽花は、濃い灰色の雲の下で、その美しさを際立たせている。モノクロの近い背景と風情が、かくも人に艶やかさを感じさせるのか、不思議な想いがする。ある詩人が言っていた。この時期の人々の鬱々を慰める為、天使が雲上の空の色を、雨を絵筆にして紫陽花に色付けしているとか・・・そう言えば、花の色は青が基調で、暁闇からの一日の空の色の何処かに当てはまる。詩人の想像力を具現化した、ロマンティックな表現に、物作りは、制作する前に、この様な精神を持ちたいものと思う。
空のあお
雨 筆にして
紫陽花に (駄句蛇足)
こんな悠長な文を綴っていると、さぞかし安穏な日々を過ごして居る様であるが、実体は水鳥の水面下。脚も心も、目標に向かって、せわしなく動かしているのが実情。
想い起せばこの四年間、七十の歳に、銀座での個展を開催してから、川口市立ギャラリー、三越での個展、二人展、三鷹市の現代根付展等々、毎年走り回る様に動いて来た。光陰矢の如しという感が大。
本年は行事予定が無い故に、ノルマ感無く、ゆっくりと、今日まで自分が歩んで来た根付の道と、この先自分は何を求めるのかを、仕事を通して考える時間を過ごしている。
幸な事に、私は中村雅俊先生 稲田一郎先生はじめ、多くの名人と云われた先生方と、御付合する事も出来、その晩年の姿勢も知り、御見送りもした。御会いした折々に感じ得たのは、晩年の作品の存在感だった。それぞれ先生方は、自分は根付をこう考えると云う解答を示して、旅立たれたと思う。それらの作品群は、勿論、脂ののった年代の作品とは違う意味での秀作根付であると考える。私はそれらを愛でて居るし、それらの根付たちに教えられることも多い。根付は工芸的見方をされるが故に、技量を持って評価されがちであるが、もっとその奥の「根付アート」とはの命題の、解答を示しているのかも知れない。
アートは、現状に対する革新であり、現状を俯瞰して、その本質を探り出す。この言葉を脳裏に秘めて、私と作品を俯瞰して、かっこ良く書けば「自分捜し」をすべく見る事としている。
試みとして「若い頃の仕事的方法」で制作し、私の現在の感性と造形がどう変化しているのかを確認したくなった。その為の習作として、素材を見て、即、図を想像して、推敲する事無く彫り出し、見せるべき技量に重きを置く事無く、一気に仕上げる方法を試してみている。根付と云われる為の条件、小刀と磨き勿論配慮している。これならば破損の心配無く、安心して使えると、人に思われれば成功と思う。作品としての美洲根付を細密デッサンとすると、この習作的な根付はクロッキー的作品であると思う。両者に「差」はあるが、味わいと云う何かが有れば上々と考える。この試みの可否は、観る方々の感想が全てであり、是非とも聞かせて戴いて、私の心の糧となる事を望んでいる。
この習作の試みは、「美洲作品」における、肩を張ったようなものがないだけに、次々と仕上がり早く手がける面白さがあり、また常に新しい図を考え出す楽しみがあり、遊ぶが如くに、夢中で手がけているうちに、気づけば半年以上が過ぎ去って行った。
面白い事に、物作りの心は、変化していくものだと、半年の私の心の移り様で解って来た。
どの様なものかは、次回にて・・・。
平成二十九年 水無月 齋藤美洲

- 2017/07/04(火) 22:01:36|
- 齋藤美洲(埼玉)
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