明治の超絶技巧 私感
猛暑、思いの外、その勢力を後退させ、身構えていた気力が萎え、安堵感の故にか、体調の変化に戸惑う。
曼珠沙華(彼岸花)の開花を観、その妖艶さに心を惑わせながら、良き気節に入る。
少々、時を経たが、明治の超絶技巧展を三井記念美術館に、花影抄、橋本、木塚両氏と観た。
平日ながら来場者の多さに驚く。完熟と云われる日本であるからこその、美術への憧憬であり、多くの
日本人がディテールの細かい仕事に興味を持つのは、DNAの中に職人的完璧性があるのかも知れない。
落ち着いて熟視出来ない事が残念だった。
<明治という時代>
第一室の陶藝より金工、彫刻、漆藝その他全て、人が斯くの如く作れるのかと思われる程の出来栄えで驚かされる。
この時代は日本史上、工芸の最高時期であり、各国博覧会において世界を驚かせた所以は、
明治と云う社会情勢に起因すると思われる。ここを踏まえないとただの一時期として忘れ去られてしまう。
明治維新は、黒船来航による外圧に対抗すべく生まれた。司馬遼太郎先生は、日本人は藩人から日本国民に
なったと云う。富国強兵で男は武士の志を持ち、殖産興業によって自分の仕事は国を富ますという意識を持った。
長屋の一職人すらこの気概を持ち、技量の向上を目指した事が、美術工芸界の底辺を押し上げ、また天才達も
輩出させたのだろう。結果、世界中の万国博覧会において、外国人をして驚嘆させ、日本の存在を知らしめた。
現代作品とこの時期の作品を比較すると、プロとしての最低ラインの高さが違う事は否めない。私の自分の技量に
対する劣等感もこの辺にある。
一巡しての想いであるが、橋本さんの感想は「満腹」との事。この意味は、「美味しかった」「もう食べられない」の
二つの意味に取れる。私も同感であった。以下、観賞後の鳥瞰的私感を述べるが、展示が余りにも多数多岐に
わたるため心に残ったもののみ記す。
<明治期の彫刻>
石川光明、高村光雲を挙げる。若い時分、両人の作品を観た時には、細部に至る観察眼と刀技に、とうてい
及ばざる思いで畏敬の念を覚えたのは今でも忘れない。象牙彫刻、仏師と出身は違うが、友人であった
両天才の切磋琢磨により、特に象牙彫刻は公の展覧会を白く埋めた程の隆盛を極めた。江戸期と違うのは、
題材は日本古来の主題でも西洋的写実を基にしての彫刻で一貫されている事である。当時は、写実の
斬新さが人々に感銘を与えたのであろう。
明治より百年強、私が良作を観てより五十年を経た。私はコテコテの根付師、またこの百年間の美術の変遷を
素養としているためか、再び観ると遠くからの位置で観賞する自分が有る。更に写実では、ロダン、マイヨール、
エミリオグレコの流れが、私の基にあるが故にか、主題表現よりもオブジェとしての存在感の有無を問うている
私に気付き、これは何故と自問する。近寄れば、再び畏敬の念を持ってしまうのだが。
<光明と懐玉斎>
先ほどの自問に対しての自答だが、置物は西洋彫刻との比較が困難である為、根付について考えてみる。
根付が根付であった時と現代との時代差を見る。根付の奥には現代に通じるものが有ると確信するが故にである。
光明と懐玉斎の両天才は時代が近かった事が、光明の刀技を成らしめたのであろう。事実、模刻ではなく
懐玉斎の刀技に勝るべく、実物を目の前にして修業したとの逸話も有る。光明の写実を徹底させてそれに
刀技を加えた作品は写実主義尊重の時代に入ったから生まれたのだろうし、懐玉斎に似てはならぬとの
自我があったのだろう。その想いは、懐玉斎の毛彫りに対して毛波の妙の刀技に至る。毛波表現は古典根付
には見られぬ新表現であり、以後、象牙彫刻会の動物作家達に受け継がれるが、凌駕した者はない。
光明が江戸期にあったら、根付の“慣”に対して、如何に対処しただろうかと考える。既に根付は鑑賞されるのみ
の時代に入り、造形もその様に変化する。
対して懐玉斎は使用されるべく創った。根付の基本である。江戸末期には意匠より技巧を極めた作品が
望まれた故だろう。この天才には、余りにも細緻な彫り込み故に、工藝的であり、アート性に乏しいとの評価が
ある。巧技故に、掌で“慣”を楽しむ事をする人は居ないだろうし、多くの人は驚嘆するのみで、細緻さに奪われる
ためだろう。あえて私は反論したい。
懐玉斎は巧者過ぎたが故に彼の持つ根付の造形的本質については語られた事がない。始めに使用可能な
美しい抽象形を作る。次に背骨のラインをS形に求める。ライン上に、肩や腰の位置を決め、抽象形を具象化する。
故に正面から見て左右対称はあり得ない。これは私の根付彫刻論ではなく、江戸期には既に近代西洋美術的
発想があったし、遡れば初代友一に行き着くと考える。(この事は、写真を得た時に再度書きたいと思う。)
写実に徹する事と、写実の奥に見出す普遍的美意識という点に、両者の差はあると考える。
<夏雄と勝岷>
前述の自問自答を解析すると、日本人の持つ独特の美意識が表現の根底に有るか否かの差であろう。
美意識とは“間”と“風情”が一つの重要な要素だ。展示作品に限るが、勝岷の豪華さは、見る人を驚嘆
せしめるが、満腹感を得るのみで、なぜか余韻に爽かさを感じない。対して夏雄の鍔は、一見これは木製
かと思われる色合いで、何の変哲もない庭の風景を表現している。(無論深い意味はあるだろう。)周りの
絢爛さに比べ地味であるが、時が経つと、その存在が他を押しのける様に感じた。これが“間”であり、
“風情”であり、日本人の美意識のエッセンスであろう。夜桜を彫るにも、篝火の明りではなく、月明りを光
とした万重作品に感激したのを思い出す。食後、一服の銘茶を得た清涼感か有った。
是真の作品にも、同様に、伝統的蒔絵から新技法を創り上げたものがあり、一見技巧にとらわれるが、
彼の凄みは、発想、問い、風情にあり、他の巧者とは違う世界に存在するように思えてならない。
名を挙げた名人各位 慷慨頓首

齋藤美洲参加の展覧会が川口市立アートギャラリーアトリアにて10月4日より始まります。
どうぞ足をお運びください!
川口市立アートギャラリーアトリアで開催の展覧会。
「川口の匠 vol.4 麗のとき」10月4日(土)~11月16日(日)
齋藤美洲・関 芳次・田中昭夫・豊平翠香
- 2014/09/30(火) 21:02:20|
- 齋藤美洲(埼玉)
-
-