根津の根付屋 & Gallery 花影抄 blog

東京・根津にある主に現代根付、立体作品をご紹介しています、Gallery花影抄のblogです。展覧会や取扱作家情報などを発信しています。

作家便り「14年6月/齋藤美洲(埼玉) ]

個展を終え、桜から花水木、さつきも終わり、紫陽花に情を重ねる季節に入りました。

個展感想を、早く書くべき所、この間心の動揺が有り、今に至って仕舞いました。
個展では、来場された皆様を始め、まして、コレクトされた方々に心よりの感謝を申し上げます。

以下、得られた感想を、アトランダムに記したい。

根付師は、個展にしろ、グループ展にしろ、継続して発表する事が、己の進歩に不可欠だと感じた。
私の場合、今回は昨年の銀座での個展の来場者も多く、会話の続き的な楽しさが有り、自分を客観視する
好材料を得た。会期中、文庫本を読破するつもりだったが、数ページのみで、来場者との話に時が流れた。

今回は、海象化石と云う材料の特質として、細かい表現が不可能だった故、造形的面白さを前面に出した。
世の美術界は、スーパーリアリズムの風潮の中、良い評価は得られないのではと危惧していたが、シンプル
な造形を強調した作品でも受け入れられたのは、面白い現象と思われ、根付表現の一つの方向性と思われた。

若い人達の来場が多いのが目だった、根付に興味ある人は勿論ではあるが、他のジャンルのアーティストを
目指す若い作家も多く、根付について話し、興味をもってもらう事が出来た。今回は私の個展であるが故に、
根付全体を見てもらう為に、東博の古典根付と高円宮コレクションを紹介した。高円宮コレクションが常設で
ある事で、古典から現代への根付史を学べる貴重な場となっていることに、感謝したい気持ちに溢れる。

不況の中でも若い人達の日本文化に興味を持つ気持ちが深い事を痛感させられた。根付の伝道者を自称
する私に取って喜ばしい事で、将来に明るさを感じた。

ライター志望の若いご婦人グループが来場し、根付に興味を持ち、そのうちの一人が探訪記として文章に
したいと申し出が有り、インタビューを受けた。日本根付研究会に載せる話しも有った様なので、普通ならば
根付とは?で大半を使う所を省いて、質問には私の思う根付論を語る好機を得た。

根付コレクターの感想は、私に取って有意義であり、新しく根付をコレクションされる方の話も参考となった。
また、現在の根付界を担った若い根付師とも話す事が出来た。話題の一つとして、私の持論である
「制作に取り掛かる時、脳内にはその完成図が指先に至るまでデッサンされて居なければ必ず途中で
迷い道に入る」それは、初めて行く所へ地図を確認せず出発するのと同じで、必ず迷う。迷って探し困る
無駄な時間と無意味な思考が観る人にとって、作家の言わんとする所が直感出来なくなる等々、語ったり、
彼らから意見を聞いたり、面白い時を過ごせた。
私は若く、上り坂にある根付師と、語り合う時は「出藍の誉」を頭の片隅に置く。意味は、生徒が師を超える
事であるが、この諺の凄みは、越えられた師が生徒の弟子になった事で、学ぶに師を選択しない。人は私の
才能に無いものが必ず有るが故に、それを探るのは、亦、楽しからずやの心境になる。

以上は、会場にて与えられた出来ごとで、云うならば、陽の当たる部分と云える。私の個展を開催する意義は、
出品者が己を知る為のものと考える。自分が作り手として如何なる者なのか?今日まで費やした歳月は無駄
ではなかったか?作品は自分の想いに同化した分身となっているのか?自分の至らざる所は何なのか?
そして、明日からまた創作するに足る資質を、自分は持ち得ているのか?等々を確認する場であろう。
決して、良き評価を受ける為で無く、陽陰の部分、つまり、自分の心の問題であり、自分を探る為にある。

そんな折、評論家の山下裕二氏が来場され、明治の超絶技巧の話をされて帰った。花影抄に有った雑誌に、
先生の書いた、明治以降の日本美術史を読んだ。中に、岡本太郎の功罪というページがあり、芸術を追求
するに、技巧的であっては成らぬという考えが、技巧を疎かにしたとの意が書かれていた。

これが、私の根付師としての自負感を得たと思いあがっていた心に刺さるものがあった。根付彫刻を始めた、
五十年も前の話しであるが、当時の日本美術界は、西洋現代美術の波の大盛り上がりの時代であった。
日展の西洋画は勿論、日本画においても抽象作品が出品された程であった。美の原点を、何処に求めるか
を模索して居た時で、その一画の旗頭が、岡本太郎だった。私も彼の著書を読み、考え方に傾倒しながら、
あまりにも“和”的な根付に、その原点的論理を探って居た。私の場合、辿り着いたのがキュービズムであり、
作家では、ブランクーシ、ヘンリー・ムーア、橋本平八で、彼らの考えを根付造形の基本にした。根付創作の時
造形の美しさは、学んだ基本理論によって、良く理解出来た。以来今日まで、その姿勢を貫いてきた、昨年の
雑誌月刊美術での対談で、多摩美術大学の本江教授との対談でそれが理解された事で、私の仕業は間違って
は居なかった事を確認出来た。

しかし、私にも告白せねばならぬコンプレックスが人並みに有る。いつか雑誌のインタビューで、私のテクニックは、
根付彫刻免許証くらいは持っているが、他の人と比べ、下手だと答えた事が有るが、これである。私は根付創作
には造形的なものに、力を入れ過ぎ、技巧的な仕事で見せられるデッサンを、より深く追求すべきであると
思い至る事が出来たのは、全力を持って仕上げたと自負していた今個展作品を客観的に観ての感想であり、
収穫であり、道は遠いと知った。

コンプレックス。NO天気の私に取って、それは克服出来る楽しみでもある。

根付の技巧。それは、己の造形をより高みに引き上げる為の作業と考える。細密とは違う。細密であるならば
「景利」が上がるが、古典根付番付では如何なる地位だろうか。私自身の意匠、造形から見ると、光廣、雅俊の
面の取り方を師としたい。新札を両手で折り曲げた時に出来る美しい曲面が彼達の作品にある。
雅俊先生かららの唯一の御教授「納得するまで、やる事ですョ」の言葉を胸に、目下、否、一生の課題となるだろう。
先生の言葉の怖さは作品を仕上げた時、「君の才能この位?」と云われそうだからだ。

その為の作業として、手持ちの拙作を数個、小刀のみで上述の面を作る可く、挑戦では無く、勉強として、
ブログ原稿も書かずに2か月を過ごした。刀法であるのか。感性であるのか、才能であるのか、悩みながらも
夢中になれた。一朝にては出来ぬ事ながら、時には投げたくも成ったが、現在、面白味も感じる様にもなって来た。
成果は如何ばかりかは解らぬが、これを日常普通の事としたい。同時に解ったのは、いくら手間を掛けたとしても、
意匠、造形において、面白くない作は、面白くならない事実だ。根付彫刻において、意匠、造形、技巧の
三位一体は非常に難しい。

この文を書きあげる本日は水無月に入った。しとと降る日々にも紫陽花に心を癒しながら、ひたすらに
小刀の音を響かせて居るだろう。

以上、我個展始末記であるが、四月は私の誕生月。春から初夏への気節の移ろいの為か、又、
来し方を思ってかメランコリックな感情になる。故にダラダラと私小説的文章が長くなり失礼しました。
こんな気分の時、京都清宗根付館を訪れ、若い作家達の作品に熱意を感じた。この事を踏まえ、
現代根付史私感を書こうと思ったが次回に…

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  1. 2014/06/20(金) 21:06:48|
  2. 齋藤美洲(埼玉)