思いの外、暑さも早く和らぎ、下弦の月に何故か侘しさを感じる。
自分一人の秋ではないのに。只今、彼岸花の紅、妖艶なり。
私は作り手故に、感激した印象を脳内スクリーンに映像として記録し、それが血肉になって
作品に投影される。職人的美学として人に説明(プレゼン)する事は無く価値は人に委ねていた。
印象を文章化するのは、なかなか難しい。
私は根付を説明するのに、よく幾何の問題を出し、定理を知れば出来ると教える。
しかし、定理を証明して、理解していなければ、問題を解くのは難しい事を発見した。
根付の基本も同様と思われる。
根付は何故現代でも作り続けられているのでしょうか。
「月刊美術」四月号での私へのインタビューで仕事場にいらした時、本江先生の感想は
ガラス越しで見た根付には、それ程の感激は持たなかったが、手に取って
見ている内に作品に引き込まれ、時を忘れ、私の仕事場にいる事すら忘れると有る。
これが根付の本質かと思われる。
大きな彫刻は、絵画よりも足を留めるのは少ない。まして背面まで囲って
見る人は、プロだろう。その点、根付は全方位から観賞される。それは根付の
ステージは空間(腰)であるからこそで、全方位が正面として、面白さを持つ。
名品は特にそれが完璧で、外国人写真家は日本人から見ると背面と思われるアングル
で作品を見せる。
根付は興味を持って掌中で見ている内、全体から細部に至る過程で感情移入
された作品となる。感情移入とは、ドイツ心理学者リップスの唱えたもので、
芸術の本質を対象(作品)の内に、見る人の感情を投射して同化させる、とある。
これは良い作品だと思うのは、思う人の心の反映だと言う事だ。ビール瓶を見た時、
酒好き、デザイナー、製造者、技師、商人等、見る人の感情は違ってくる。
その多くが良いビール瓶だと認めた時、価値が決まる。雲を見て、ある形を発見し
別の人も同じく見える事を共有した時、その雲は作品となるのと同じだ。
観賞される時が長いのは、根付の大きさにある。掌中で観賞されるからこそ
全方位彫刻が光るのでは。小さいと云って芸術的価値は変わらない。
こう考えると解りやすいだろう。
空間それ自体は無であり実感すら出来ない。三次元の造形物を置く事で把握出来ると
以前書いたが、作品を夢中で観賞して居ると、周りが空間となり、作品の大小は感じ
られなくなる。
10歳の少年が根付展覧会場に長い間を過ごした。出てきた時の感想で
ボク、自分の大きさを、忘れちゃったョ…と云われた事があった。
真の根付は「小さくて大きいもの」だと思う。


- 2013/10/06(日) 18:17:15|
- 齋藤美洲(埼玉)
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